私は、自分が主宰している任意団体ひとなみで、散骨についてお坊さんや葬儀関係者と話したことがあります。
その座談会で、真言宗豊山派のM僧侶が、
昔は、埋葬するお金がない人はよく、電車の網棚に骨壺を置いてきたじゃない? 5万円で委託散骨(=親族は乗船せず、誰かが散骨するクルーザーに遺骨だけを乗せて撒いてもらってくること)するのと、網棚に置いてきちゃうのとだったら、どっちがいい(あるいはひどい)方法なんだろう?
という命題を出してくれました。
ふつうに考えたら、故意に遺骨を置き忘れて遺失物とすれば鉄道会社に迷惑がかかりますから、そのほうがヒドイことだと思います。でも、いろいろ話した結果、「仏教的に考えたら、委託散骨のほうがひどいのかも!」という結論になりました。
なぜなら、「委託散骨は、5万円払って業者にお願いしたので、誰にも迷惑かけてない、というスッキリ感がある。一歩ひいてみたら、単なる“遺骨処理”であり、なんの供養にもなっていないのに。
しかし、網棚に置いてきたら罪悪感がずっと残ります。ことあるごと心のなかで故人に申し訳ない、申し訳ない、と言い続けることになる。これはある意味、供養だよね」と。
社会的に(生きている人にたいして、目に見える形での)迷惑をかけるかかけないか、でみれば委託散骨がマトモ。
しかし、宗教的な(目に見えない世界も含めての、死者への思いやりや恩義を含めた)観点でみれば、委託散骨は網棚への置き去りよりもよくないことなのかも、という話になるようです。
2020年、新型コロナウイルスの影響で、首都圏の火葬場では「ワンデー葬儀推奨」、「10人以上の会葬禁止」、「会食を伴う会葬禁止」となり、従来の何倍ものスピードで、直葬割合が増加しています。
〝供養するこころ〟の総量をはかり、〝なんのための儀礼か〟を見つめ直すことが忘れ去られたまま、葬儀はどんどん簡略化されています。
上図は、日本人が古来から、〝あの世〟をどのようにとらえていたかを図解したものです。
『日本民俗文化体系8 村と村人』473ページ(小学館)や、宮家準著『宗教民俗学』p161図30(東京大学出版会)などにも同様の図が掲載されており、民俗学者や文化人類学者の間では定説となっていることがうかがえます。
私は、葬祭カウンセラーの資格認定(日本葬祭アカデミー教務研究室)の際に、この図の詳しい説明を受けました。
解説しますと、円の右側、時計でいうと3時のときに短い針が指す位置から、反時計回りにみていきます。
生まれてすぐに名づけをし、1ヵ月半ほどで初宮参り(産屋明き)、100日目にお食い初め、1年目に初誕生。
以後、七五三、成人式(昔は数えの十三歳で元服)、結婚式、厄除け、そして還暦、喜寿、米寿、白寿……などの年祝いを経て、葬式となります。
しかし時計の短い針はまだ半周して9時を指すところ。
人生はまだ半分しか、終わっていません。
ここからまた、生きているときと同じ節目で、初七日(名づけの頃)、四十九日(産屋明きの頃)、百ヶ日(お食い初めの頃)、三回忌・七回忌(七五三のタイミング)、十三回忌(昔の元服のタイミング)……と供養をしています。
つまり日本人にとって、故人はあの世で「もう一度生き直している」のです。
ある浄土宗のお坊さんはこのことを、「昔のLPレコードみたいに、人生はA面とB面があるんだ」と説明してくださいました。
場合によっては、時計の針が9時を指すところがスタートで、あの世が半周終わってからこの世に来ている、とも考えられるかもしれません(日本神道と感性が似ているとも言われるチベット仏教では、はじめに「死ありき」で、生きることを哲学していくそうです)。
こちらの図は、知人が運営していた福祉施設に通所している若者が描いてくれた〝あの世のイメージ図〟です。
死んだら私たちの肉体はなくなるけれど、御魂がデータ化されて、極楽浄土というクラウドサーバーへ登録(データとして蓄積)される。
サーバーの情報は、IT技術を信じていない人にはまったく扱えないけれど、お坊さんというシステムエンジニアにお願いすれば、お経というプロトコルを読んで、亡くなったあの人の魂にアクセスできるようにしてくれる。
法事はいわば、お坊さんというシステムエンジニアによる定期メンテナンスで、お墓やお位牌は、魂にアクセスできる「端末」というわけです。
簡単に動かすことのできないお墓はデスクトップPC。どこへでも持ち運べるお位牌は、モバイルに当たる。
葬祭カウンセラーもあっぱれの、ものすごくわかりやすい図ですね!
あまりにもわかりやすい図だったので、私が監修した『わくわくを探して Let’sお墓参り』という本の帯にこの図を使わせていただきました。
こんなふうに説明されたら、回忌法要という「定期メンテナンス」は、やはり必要だ! という気持ちになります。