通夜葬儀や法要のお布施として、どのくらいお包みしたらよいのでしょうか。
以前は祖父母から父母、子へと自然と伝わっていたのでしょうし、親族がいなければ近所にいる檀家総代に聞けばよかったのでしょう。
しかし市民の大半がサラリーマンとなり、会社の都合であちこちへ移り住むようになってからは、世代ごとに別居するのがあたりまえになり、こうした情報は伝わらなくなりました。
お寺には直接聞きづらい
聞いても「お気持ちで」とはぐらかされてしまう
こうした声に応じて、数十年前からお寺ごとの「目安」を掲げるエリアも出てきました(東京近郊に多い)。いまでは、僧侶派遣を手掛ける業者のホームぺージをみれば「目安(何万円~など)」が表示されるようになりました。
しかし、お寺の側が妥当と感じる金額は、お寺の格式によっても、宗派によっても、地域によってもさまざまです(後述するソモソモ論からすれば、「妥当と思う」ようなことは、ないのが原則ではあるのですが)。
僧侶派遣業者の示す「宗派ごとの目安」は、全国平均ですので、多くの人がそれを見てお納めするようになれば全体的にその平均値に近寄ってゆくのでしょうからいちおうの目安にならなくはないとはいえ、現状ですと、地域や宗派によって、お寺側からはさまざまな声をお聞きします。
都市部のある程度の規模のお寺さまからは、「あのような目安を出されては困る」という声もありますし、逆に地方へ行くと、「目安の半分がこのあたりの相場だったので、とても感謝している」という声も。
平たくみれば、業者さまによる目安表示は、地域間格差を縮めてくれた効用はあった、ということになるといえます。
モノの値段というと、東京・大阪・名古屋が高いに決まっていると思われがちですが、お布施に関しては、そうでもありません。
都市部ではむしろ、実家を継がなかった(=お寺とのつきあいのない)次男・三男のご家庭が多く、最近になって墓地や納骨堂を契約したというかたの割合も高いのです。
提示されるお布施が高額になるケースの多くは、三代以上にわたってそのお寺とおつきあいがあり、二代三代前に地域の名士でいらしたために、いまだお寺側が檀信徒のなかで重きをおいていらっしゃるというご関係です。
おつきあいの年数が浅いかたが多く、しかも都市部で新規に霊園開発をされたお寺の場合、檀信徒の総数も多くなるので、個々のご家庭に求めるものもそう大きくはならないという事情があります。
行政書士として墓じまい(改葬)のサポートをしばしばさせていただいている私の所感では、東日本に関しては、首都圏よりもその周辺のドーナツ地帯(仙台~福島~新潟~静岡)のほうが、あがるお布施の平均値は高額になる印象があります(むろん個別の事例では、首都圏で高額を要求されるお寺もありますし、周辺地域でもほんとうにお気持ち次第でいくらでも快く接してくださるお寺もあります。あくまで平均した場合の雑感です)。
「いくらお包みしたらよいのか」、「どのような形でお包みすればよいのか」ということをしばしばうかがいます。
包みかたについては、白い封筒にお入れするか、白い紙に包んでお渡しするのがよいとされています。
お寺によって、花代や塔婆料を別にしてほしいというところもありますので、その場合は分けてお包みし、花代、塔婆代などと明記します。
またお寺側は、一日に複数の法要を受けることもありますので、「○○家」と記名はしたほうがよいでしょう。
「いくらお包みしたらよいのか」については、ネットに表示されている全国平均に、前の段の地域差や、お寺さまの規模、これまでのお寺とのおつきあいの度合いなどを総合的に加味していただけば、判断がつくのではないかと思います。
お布施とは、私たち一般市民の代わりに、修行や祈ることをしてくださっている宗教者へ施すことで、われわれ在家の者が功徳を積んだことになる、というものです。
平均値をそのまままねるのではなく、「少し無理をして出せるくらい」が妥当な目安と思ってください。
もし、お寺から額を明示され、それが「少しの無理」ではなく家族の進路や生活を大幅に変えなければならないほどの負担であるときは、正直に懐具合をお話ししてみましょう。
お寺側は、従前のおつきあいから「このくらい」と提示していることが多く、ない袖を振れとまでは思っていないことがほとんどです。
話してみたら、意外といい和尚さまだった!
という声を、私も年に数回はお聞きします。
仏教では、貧富の差がひろがることをよしとしません。だから、蓄財を忌避するのです。
イスラーム教も、財はアッラーの神のもので、私たちはお預かりしているものにすぎないから、自分のものとして蓄えることをよしとしないと聞きますが、基本の考えは同じと思います。
先日、「色即是空 空即是色」について持論をnoteに書きましたが、同様のことです。
いただいたら、使うぶんだけいただき、あとは蓄えずに誰かに施す。これが仏教者の基本です。
お釈迦さまの時代は午前中に1回だけ托鉢をし、午前のうちに食べきることがならわしでした。
いまでも、南伝仏教の国々(タイやミャンマーなど)の僧侶は、固形物は午前中にしか口にしません。
お釈迦さまの言葉をまとめた『スッタニパータ』の「なまぐさ」という項には、
よく炊(かし)かれ、よく調理されて、他人から与えられた純粋で美味な米飯の食物を舌鼓うって食べる人は、なまぐさを食うのである。
『ブッダのことば スッタニパータ』(中村元訳。岩波文庫、青301ー1、54ページ)
とあります。よく調理されたものは保存がきくから、蓄財につながるとして、好まれなかったのです。
しかも、托鉢されるものの内容について、満足いかずとも腹を立てず、感謝していただくことが、宗教者の修行となると考えられていました。
ですから、お布施の額を宗教者の側から明示されるのはおかしなことです。
とはいえ、寺の維持費は一般家庭の何十倍にもなるので、檀信徒の数で割ったら「このくらいはいただかないと、維持できない」とお考えで、目安を提示されている場合もあります。
先祖代々のお墓のある寺院を大事にしたい気持ちがあり、修繕費の一部を負担できる経済状態であるならば、少しの無理をして従うのもよいでしょう。
少しの無理では無理なようであれば、ご相談してみる。
それでも折り合えなければ、別のご縁ともとめてみるのもよいでしょう。
また、上述のとおり「蓄財はよしとされていない」ので、盛り場で豪奢な飲食をして入ったお布施を経済に還元されるのもひとつの方法かもしれませんが、お布施が高級車などの私財に替わっている場合は、本来論をご存じないかもしれませんので、要注意です。
2021年12月~2022年2月まで、僧侶有志とのオンライン勉強会Zoom安居(第9回)にて、お布施についてのアンケート調査を実施しました。僧侶、一般のかた、それぞれ200件強のご回答をいただきました。
第3回Zoom安居(2020年7月)でもお布施をテーマにしたシンポジウムを行っております。
内容はいずれも動画でご視聴いただくことができます。