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お寺の住職は、なぜ世襲が多いのですか?

改葬(墓じまい)のお手伝いをしていると、次ような声をしばしばうかがいます。

  • 前の住職は尊敬できる人物だったけれど、息子の代になったら頼りない
  • 「仏教大学へ行くなら高級車を買い与える」と先代にいわれて、僧籍をとったらしい
  • 世襲制だから、日本の仏教は堕落するんだ!

仏教をひろめたい! という信念もなくお寺を継ぐって、変じゃない?(発菩提心、発心)

お寺の住職が世襲制だと、ほんとうに堕落するのでしょうか? 
そもそもいつ頃から、なぜ日本では、住職が世襲するようになったのでしょうか。

また、ほんとうに世襲のお坊さんにはひどいお坊さんが多く、在家(一般家庭)から僧侶になった人はいいお坊さんばかりなのでしょうか。
具体的にみていきましょう。

世襲の一番の問題点は、発心(仏の教えをひろめたい)という思いがないのに、継がなければならなくなるという場合がある点です。

結論:目覚めた僧侶であるかどうかは、仏に救われた経験次第

私の周辺には、自死自殺に向き合う僧侶の会のメンバーや臨床宗教師のかたなど、葬儀法要以外の悩み相談に応じる活動をされている僧侶がたくさんいらっしゃいます。多くの人が、彼らを「いいお坊さん」と評価します。
彼らのなかには世襲で僧侶になった人も多くいます。在家(一般の家庭で育った状態)から、なにかのきっかけで一念発起して僧侶になったかたもいらっしゃいます。

ただし、〝いいお坊さん〟と評される僧侶がたに共通していることがあります。
「仏の教えはありがたい、と心底感じる経験談をお持ちである(※)」ということです。
※このことを、「発菩提心(ほつ・ぼだいしん)がある」などと言います。

世襲で僧籍(お坊さんになる資格)を取得したあるお坊さんは、東日本大震災のあと読経ボランティアに出かけた避難所で、自分のお寺の檀家でもないたくさんの人々が、自分の読経のあと「よかった、お坊さまに読経していただけた。これでやっと(亡くなった親族が)成仏できます」と涙を流す姿に直面し、「読経は、こんなにも人を救えるのか」と開眼し、以来、臨床宗教師の筆頭として大活躍されています。「3・11直後のあの体験がなかったら、自分もろくでもない部類の僧侶になっていたかもしれない」とおっしゃっていました。

いまの日本で在家から僧侶になるかたの場合、死にそうになったところを仏教の力で助けられたなど、仏に救われた経験があって僧籍を取得することがほとんどですから、在家出身のかたのほうが発菩提心(=仏の教えのすばらしさに目覚める気持ち)をお持ちである場合が圧倒的に多いことはたしかです。

しかしかつては在家出身でも、発菩提心からではなく自分の利得のために、寺の住職になる人はいました。
私は、あるお寺の由緒書き(どのようにしてこの寺が維持されてきたかの記録)に、
「戦いに敗れた城の城主が追手から逃れるために庵に潜んで私度僧となったことが開山のきっかけであった」
と書かれているのをみたことがあります。

昨今でも、「僧侶になれば、追い出される心配もなく楽して老後を過ごせると思ったので定年退職を機に僧籍を取得してみたが、案外たいへんだ」と愚痴めいたご発言の目立つ僧侶もいらっしゃいます。

結論からいうと、いいお坊さんであるか否かは、「お釈迦さまの教えを心底すばらしいと思ったことがあるか・いなか」、つまりお釈迦さまの教えに命を救われるほど恩義を感じているかどうかによるので、世襲であるか・ないかということよりも、それぞれの僧侶個人の問題ということになります。

世襲になったのは明治政府が「妻帯してもよい」と言ったから

そもそも、お寺の住職が世襲になったのはいつからなのでしょうか。

浄土真宗だけは在家の仏教なので代々世襲されてきたのですが(※)、それ以外の宗派では、1872(明治5)年の太政官布告(明治政府が出したおふれ)で妻帯が認められて以降、世襲が始まりました。

※浄土真宗は「南无阿弥陀佛と一心にとなえれば救われる」という浄土宗の教えをさらに進化させ、自力で修行をすることを積極的に勧めない教えになっています。始祖である親鸞聖人は、「結婚したり、肉を食べたりしても救われることを自ら示さなければ、出家していない一般信徒(ご門徒)たちに「ほんとうに救われる」と信じてもらうことはできない」と考え、有髪、肉食、婚姻をされて民衆と同じ生活をなさいました。

ここで私たちがギモンに思うのは、「仏教は、お釈迦さまの教えを信ずる宗教であって、そのお釈迦さまの教えにしたがえば、出家した人は結婚してはいけないのではないの?」ということなのです。事実、アジアの日本以外の国では、仏教僧侶はいまも結婚しません。

どうして日本のお坊さんたちは、お釈迦さまの教えよりも、明治政府の言うことをきくのでしょうか。
じつは日本の仏教は、大陸から伝わった当初から、信仰というより政治的な道具として用いられてきた要素が強いという特殊性があります。

フランシスコ・ザビエルがキリスト教を伝えたときは、個々の市民に布教をしていきましたが、飛鳥時代に仏教が伝来した当初、お経と仏像が届いたのであって、僧侶は来日していません。つまり仏教は当初、宗教というより文化として伝来したのだといえます。

日本仏教は、政治の都合で動かされてきた側面が強い

古来、ひとりの仏教僧侶に僧籍を与えるには、10人の僧侶(3人の師僧と7人の証人となる僧)が必要でした。しかし、お経と仏像が届いただけで僧侶が来日していませんから、日本人が僧侶になるには、遣唐使として大陸へ留学しなければならなかったわけです。

そこで奈良時代に朝廷は、唐から鑑真和上(がんじんわじょう)一行を招いて、国内でも正式に僧侶を任命できるようにしました。

というのは表向きで、じつは私度僧と呼ばれる自称僧侶が大勢出現し、このままでは税収が少なくなると懸念した朝廷は(当時から、僧侶は租庸調を免除されていたそうです)、僧侶になれる人数を制限するために鑑真和上を招いたのではないかという説もあります(都内寺院の法話会でうかがいました)。それが真相であるとすれば、日本の地でより多くの僧侶を輩出して仏教をひろめたいとする鑑真の思惑と、日本の朝廷の望みとは、微妙にズレていたことになります。

とにもかくにも、奈良時代の朝廷は、僧侶になれる人数を自ら定め、なかば僧侶を国家公務員化していたわけです。このことと、明治時代に出された太政官布告とを比較してみると……?

長らく武家に握られていた政治の実権を天皇家が取り戻すにあたり、「これからは神道を国家第一の宗教とするから、仏教僧侶はもう国家国務員ではない、だから妻帯も肉食も蓄髪も好きにしていいですよ」と定めたものだったとも考えられます。仏教に戒律をとってつけたのも朝廷でしたが、戒律をやめていいですよと宣言したのも政府だった、ということなのです。

こうして、日本の僧侶はみな、昔でいう私度僧になってしまったわけですが、その前によく知られる廃仏毀釈運動がありました。神道だけを優位にしたかった明治政府が、外国発祥の宗教である仏教を否定し、寺を壊しまくったのです。江戸時代には神社と寺はあまり隔てなく融合されていましたが、仏像や仏塔、仏具だけが無残にも破壊されました。地域によっては千人単位の僧侶が還俗し(僧侶であることをやめ)、兵隊になったりしました。織田信長公が比叡山焼き討ちをしたのも有名ですが、廃仏毀釈は全国規模で仏像や寺が破壊されたのですから、はるかに一大事です。

その爪痕が激しく残るなか、政府は僧侶の妻帯を認めました。国のお墨付きを失った寺を修復してゆくには、妻帯して弟子(子)に継がせ、一家で支えてゆくよりほかなかった事情もあるのでしょう。

戒より、内面を重視する日本仏教の深さ

(出典:拙著『心が軽くなる仏教とのつきあいかた』第1章)

僧侶の肉食妻帯を認めたこの太政官布告を、「政府が僧侶を堕落させるためにしたもの」という人もいますが、そうではないと思います。というより、明治政府の意図がどうであったにせよ、妻帯しても堕落しない方法が、日本仏教には示されているのです。

代表的なのは、鎌倉時代に肉食妻帯した親鸞聖人の教えです。

親鸞聖人は、たとえ生涯妻帯しなかったとしても、たえず異性を気にしているのでは妻帯しているのと一緒。肉食しなくてもしょっちゅう「食べてみたい」と考えたり、「食べずに我慢している自分はエライ」と思い込むくらいなら、肉食して殺生したことを悔い、阿弥陀さまがそんな自分をも赦してくださることに感謝するほうがいいとお考えになり、あえて戒を破ったのです。

これは、形式だけの戒を守るより、「目のまえに釈迦が見えているように修行せよ」と心の側面を強調して具足戒を棄てた最澄のケースと酷似していませんか。

戦乱や飢饉の絶えない時代に、僧侶が比叡山に籠って経文解釈の議論をしているだけでは、民衆の苦しみを救えません。そこで親鸞の師である法然上人は、僧侶としての地位を棄てて山を下り、難しい経文を理解できなくても、文字さえ読めなくても、阿弥陀さまはすべての人をわけへだてなく救ってくださっているから「南無阿弥陀仏」と唱えるだけでよいと、民衆のために教えを語りました。

弟子の親鸞聖人にいたっては、さらに在家の人々のなかへ入り、在家と同じ暮らしをし、肉食妻帯をしても救済される(お浄土へいける)ことを、身をもって示したのです。

ここで思い出していただきたいのは、釈尊が「今のバラモンたちは昔のバラモンたちの守ったバラモンの法に従ってはいない」と語り、形ばかりの儀礼をおこなっても、財を蓄え飽食にふけっていてはバラモンとはいえないと主張したことです。

日本仏教には、戒が国家権力によって乗せられたり棄てられたりしてきたという特殊事情あります。しかし戒を国家権力が利用したために、逆にケガの功名ともいうべき〝形式的な戒よりも内面を重視する特殊な教え〟が発見されており、しかもそれは釈尊がめざした原点と一致しているのです。

戒を無視した日本仏教は、海外の僧侶からはしばしば「仏教ではない」といわれますが、イスラーム教の例でお話ししたように、聖職者のいない宗教であればこそ、すべての信者が融通しあい、我を張らない生きかたを実現できる側面もあるのです。

海に囲まれ、ここより先へは布教できない極東の島国で、戒を重んじず僧侶と在家が同じように肉食妻帯飲酒をするという在家のための仏教がはぐくまれた縁起に、感動せずにはいられません。

さて、世襲の話から妻帯の話へ逸れてしまいましたが、最後に、寺という特殊な世界を継いでゆくのに、寺育ちのほうが都合がよいという側面についてお話ししておきます。

寺育ちの僧侶から、子どもの頃に近所の仲間と遊んでいたら、「お寺の子なのに虫を殺している(殺生をしている)! と責められた」というエピソードを聞いたことがあります。友達と同じことをしていたのに、地域の大人から自分だけが責められる――そうした特殊な経験から、殺生してはいけないのはなぜかということについて、幼少から深く考えるきっかけができ、宗教的体験が深まる場合もあるのではないかと思います。

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