モラル・ハラスメントはなぜ起こるのか? 解決の方策は?
モラル・ハラスメントについて、日ごろの相談業務から感じたことを書きとめたものです。
その他、このテーマで開催した<ひとなみ座談会>の様子は ⇒ こちら
このテーマで開催した<お坊さんと話そう!@渋谷Li-Po>の様子は ⇒ こちら
PTSDの怖ろしさ
7/6/2011
原因の環境から離脱して数ヶ月、「もう大丈夫!」と思った頃に、フトしたキッカケで襲ってくるのがPTSDです。
ハラスメントを受けていた当時浴びせられた言葉が滝のように降り注ぎ、卑屈な自分が走馬灯のようにめぐる、自分が間違っていて周囲のすべてに無視されているかのように感じ鬱状態に陥っていく瞬間。
自分で自分に「大丈夫そのまんまで大丈夫」といいながらゆっくり、時が過ぎるのを待てたらいいけれど・・・・・
「乗り合い舟」と思えば解ける?
モラル・ハラスメントの糸口
世の中は 乗り合い舟の かりずまひ よしもあしきも 名所旧蹟
(一休禅師)
人間不信に陥りぎみの私に、友人の田口誠さんが教えてくださった言葉です。
そこでふと思ったのですが、「旅先だからと(親しいからと)平気でゴミをばら撒く人(平気で相手を傷つける人)に出会ってしまった」と認識すれば、モラル・ハラスメント解決の糸口になるのではないでしょうか。
脱出できないのはなんといっても、「私のせいで(私の性格ゆえに)、相手を怒らせてしまう」と思い込んでしまうこと。その思い込み自体に、酔ってしまうこと。許容することが思いやりであり愛であると、勘違いしてしまうこと。
「親しき仲にもなんとやら」といいますが、人生観や家族関係・仕事上の関係で依存せざるをえない状態にあると、「親しいからこそホンネをぶつけてくれている」、「私にだけ、こんなに辛さを露呈してくれる」と思ってしまいます。
でも・・・・・人生「乗り合い舟」だと思えば!
上司と、あるいは夫婦ふたりきりで乗ったときに、「他人には決してしないような打ち明け話」をされても、怒鳴りまくってブチ切れて舟がひっくり返るほど揺らされたら、二度と一緒には乗りませんよね^^;
職場や家庭の中といえど密室ではないんですよね・・・・
耐えている人の暗澹は、周囲に伝播します。
耐えることが美徳ではない、ともっと多くの人に伝えたいですw
ネット社会で「よい子」を装うことが
モラハラを助長してはいないだろうか
対立意見は避けて通り直球で批判しない=顔の見えないネット社会の掟です。しかしほんのわずかの違いも許容せず槍を飛ばし続ける昨今の小学生を見て思う、あれだけ毒抱えてるのにネット上では「よい子」、だから職場や家庭という顔見知りだけの中でモラハラが横行するのかな、とTwitterで呟いた頃、「職場でのいじめ、昨年比1割超、相談3万件強」と朝日で報じられていました。
ガマンできない子どもがそのまま大人になり、ネット社会や取引先との間で「よい子」を演じ続けた結果、リアルで身近な人間関係を破壊します。彼らはもはや、ヴァーチャルな中でしか人らしく(自分と同様に他者を尊重して)生きることができない非日常人なのかもしれません。
ペットとの暮らしは、モラハラの傷を癒やすか
雲仙普賢岳の噴火の際、溶岩流の跡地に多数の犬猫が棄て置かれているのをニュースで見て、「メダカより大きな生き物は飼えないな・・・・」と思いました。メダカは放置でもプランクトンなどを食べてけっこう長く生きられますから。
阪神淡路大震災でも、ペットを避難所へ連れてゆけず困ったという話をたくさん耳にしました。
正直いうと、ペットを飼う人を半ば「万が一のことも考えずに自分のエゴで動物の命をお金で買ってくる人」のように感じていた時期が長かったです。
また、行政書士になってしばらくすると、動物法務専門の先輩がいらして、そのトラブルの内容を聞くとさらに、ペットをめぐる人間のエゴの醜さみたいなものがグサグサと感じられ(儲けしか考えていないブリーダー、自分の犬は絶対に噛まないと信じて譲らない飼い主など・・・・)、ますますペット・アレルギーになっていたと思います。
しかし、信頼し、ともに“家族”を築こうと努力してきた家人から、「常識がない」、「人格破綻してる」、「母親失格」と判定された心の傷は、心療内科の先生から「PTSDですね」などと言ってもらって即座に治るものではなく・・・・・・
誰からも愛されるに値しない女。なのに、確実に“愛され妻”だった非常勤講師仲間を身代わりにして、震災で生き残ってしまった。
そのトラウマを少しずつでも削り落としていくために、時間を見つけてはインコ専門店こんぱまるへ足を運んでしまうのです。雛から飼えば、コンパニオン・バードは人を絶大に信頼してくれる、その言葉にすがり、頼られ愛されることを少しでも感じたいがため、インコを飼おうとしているのです。
私に予約されたサザナミインコさん、心の傷のはけ口にされる目的かもしれなくてごめんね・・・・・。
それを、「やや社会性や思いやりに欠けるわが家の凸凹三きょうだいの心の教育のため!」とこじつけている私。もしかしたら、ウチに来るサザナミインコちゃんに対してモラハラをしているのかもしれません。
そう、いまの私はまさに、エゴの塊と化した飼い主候補にすぎません。
飼い始める前に少しでも知識をつけ、イヤな餌を与えたり、不快な環境に置いたりしないよう、せめてもの努力はしています。
万が一の場合に備えて、今日、「災害時小鳥サポート」の宮城さんというかたとも連絡を取ってみました。まだ小鳥の飼い主になってもいないのですが、<ひとなみ>の活動の一環として、「ネットワークをつくる」お手伝いならしていけるのかなと感じたので。
冒頭で雲仙普賢岳や阪神淡路のとき、多くのペットが見放された話をしましたが、今回の震災では、「迷子ペット探し&ペットOKの避難所」マップも作られましたし、ネット上でペットと避難所で過ごす人の心温まる写真も見つけました。
小鳥に関しては、人と同じ毛布で眠れないことや、羽毛アレルギーのかたがいたり、猫が同時に避難していては困るなど、避難所受け入れはまだまだ難しいのでしょうが、どのような避難のしかたが妥当なのかも、これからいろんなかたと情報交換していけたらと思います。
震災後の辛さ
3/21/2011
震災後の非常事態、被モラハラ下で耐え抜いていた人たちはどのように過ごしているでしょうか・・・
ただでさえ箸の上げ下ろしひとつ非難される日常。
この非常時において、停電対策で冷凍品を処理しようとすれば「電子レンジで電気を無駄遣いするのか」と言われ、ガスで料理しようとすれば「冷凍品は腐らせてもいいのか」と非難されで疲れ果てていませんか?
自己愛性パーソナリティ障がい
3/10/2011
イルゴイエンヌ女史によれば、モラハラ加害の多くは自己愛性パーソナリティ障がいによって引き起こされるといいます。
その構造は、たとえばカルト宗教信者による極端なまでの勧誘などにも類似点があるかもしれません。
自己の信仰を正しいと信じる気持ちがあまりに強いがために、他の信仰のすべてを否定する構造。
もとより、考えの違う相手を許容し認め共生しあうのが宗教の根底なる原則であったことも忘れて。
モラハラへの服従は、自己否定
2/22/2011 信頼する相手の気持ちに合わせることは、自己否定じゃない。なぜなら、相手が喜ぶことで自分も癒やされるのだから。でも、モラハラ被害者が「納得した」ということにして相手に服従し続けるのは、これとは違う。耐える自分が過酷に残存するのみで自分が癒やされていない、つまり自分を大事にしてないのだから。
モラルハラスメント、真の闘いは脱出後・・・
言葉の暴力だけでなくDVの場合にも言えることでしょうが、され続ける状況を甘受するため、「あんないい人をこんなふうにさせてしまった自分が悪い」、「あなたに暴力をさせてしまってごめんね」と言い続けることで、先へ進もうとします。
冷静な第三者が見ると、「自分に酔ってるんじゃないよM女(女性がハラサーの場合はM野郎)」となりますが、偽善的に酔っているのとは少し違うように思います。そうでもしないと明日へ進んでいけないから、<いま、目の前の出来事>をやり過ごすため最大限の努力で、そう言い聞かせているのです。
自分自身のためというより、子どもの場合ということもあるでしょう。
あるいは、両親や親戚から暗に離婚を禁止されている場合もあるでしょう。
そして、その悪循環の構造から脱け出る決意をするとき、はじめて相手の非を確認することになります。
その罪悪感を流し去るため、脱け出るまでと同じくらいの時間がかかるのかもしれません。
同じ境遇の仲間と、わかち合うことや、叫びあうことが必要かもしれません。
「釣った魚にエサはやらない」のは、普通のことです。
それがモラハラなのかどうかの見分けが重要。
ある日を境に、急に信じられないくらい冷たくなる。
つまり、「釣った魚にエサをやらない」のがモラハラだ、と書籍には書かれていますが、本当にそうなの?と思っていました。
だって、釣った魚にエサをやらないのって、当たり前のことじゃありません?
私だって、釣れた魚にエサなんかやらないと思います。水槽で飼ったりする場合のほかは。
だからずっと、「この程度、結婚生活してたら誰でもガマンしてる」と思ってましたし、「そんなこと言われたら、20代の頃つきあった人たちだってみんな釣ったあとはエサくれなかったよ、じゃ~あたしが被モラ典型タイプだから相手が誰でもそうなっちゃうの!!??」と自己嫌悪に陥ってみたり、その自己嫌悪になるところがまた被モラ体質ゆえなんだと落ち込んだり、そうすると未来永劫もう幸福なんかやってこない><って気持ちになったりしました。
でも、冷静に考えてみたら、釣った魚にエサやらないのは、普通のことです。
それが病的なほどのモラルハラスメントを生み出してしまうかどうかは、また別の話なんです。
以前、PCM心理学の6つのパーソナリティについて学びました。
交渉の相手を、リアクター、ワーカホリック、パシスター、ドリーマー、プロモーター、レベルという6つのパーソナリティタイプ(性格の要素)に類型化することで、「あの人にはこういう言い方が効果的」、「この人にはこう押してもダメ」といったことを理解していくものなのですが、これを利用して、うまくいく人間関係というのも、かなりありそうです。
だけど、それを押さえてもなお、無理な関係、その場を離れるしかない人間関係というのもありそうです。
モラルハラスメント事案のご相談を受けていると、「自分の接しかたが変わればどにかなるものを、モラハラと名づけて自分を被害者扱いしているケース」と、「相手方が自己愛性パーソナリティ障がいといえるほどの状況で、回復困難と思われるケース」とが渾然一体となっている気がしていたのです。
モラハラの特徴として、「ある日を境に(完全に相手が自分から逃れられなくなったとわかった瞬間から)、優しかった人が突然に豹変してしまう」ということが挙げられます。
でも、ごく普通の恋愛においても、そのようなことってよくありますよね。
ネットゲーム友達のU丸くん(20代「遊び足りないから」と妻と別居中)は、
「相手が逃げないとわかると冷めちまう」
と平気で言ってのける典型的なアソビ人ですが、べつにモラ男だとは思いません。
男性は元来、獲物を追う習性があるので、相手が手中に納まったとわかり追う必要性がなくなると、多かれ少なかれ「醒めてしまう」ものなのだといえます。
じゃあ、モラハラとそうじゃない「急速醒め」の違いは、なんなのか。
PCM心理学をかじってみて思ったのは、この心理学でいうところの6つのパーソナリティでも他の学問の類型でもなんでもいいのですが、負担に感じるストレスポイントを読もうとしても読めない、気に入るツボを努力して感じ取ろうとしても容易には分析できない相手方というのは、パーソナリティがかなり複雑な経緯によって構築されていて、こうした類型にあてはまらない=定型人からすれば、“異端”、理解しづらい、対応できない、ケースによってはパーソナリティ障がいといえるほど複雑な人格である可能性があるんじゃないかということです。
手中に納まる前のアツアツの状態なら、人格分析などしなくたって相手は追っかけている状態です。そうじゃなくなって手中に納まった(獲物がもう獲得できた)状態=家庭を築いている状態で、男性側が醒めてしまった段階でもなお、掌のうえでうまいこと転がし続け良好な人間関係を保っていこうとすれば、追ってくれていた頃よりは工夫が必要です。
よく、モラハラの書籍には、「モラ夫は釣った魚にエサをやらない」と書かれていますが、そもそも、どんな人だって、釣った魚にエサなんかやらないものなんじゃないでしょうか。
もう立ち去るしかどうしようもないくらいの言葉の被暴力状態、というのはたぶん、心理学などで類型化されているうち、普通に考えたら「どう考えても合いそうにない正反対のタイプ」を併せ持っているような人の場合に起こるのかもしれません。
誤解しないでいただきたいのですが、どんな人も、6つのタイプのうち2つや3つを合わせ持っていると思います。PCM心理学でも、細かな類型では組み合わせから720のタイプに分けていくそうです。
ただ、いままでに読んだモラハラの書籍に出てくる例を思い浮かべると、加害者(いわゆるハラサー)といわれる人たちは、「どうみても正反対で相容れないと思える類型が混在している人」であったように感じるのです。
ひとつ、できなかった線引きができたような気がします(^-^)/
暴力の連鎖
2/9/2011 OkeiのTwitterより
人が言葉の暴力を発してしまうのも、理解されない気持ち充たされない気持ちで容量が一杯のとき。物理的暴力ならば発するほうが悪いが、その前に相手方が言葉の暴力(国家間なら経済的暴力)をふるっている場合がほとんどだろう。
その言葉なり経済的なりで暴力ふるう側はまた、精神的(国家間なら民族的)抑圧を受け続けていながら、そのことを主張できず抑圧に耐え続けてきたことを根底に持っている場合が多い。
言葉や経済の横暴に気づいた時点で、「つらそうだね」と、誰かが批判的でない目を向けていたら(国家間ならバッシングではなく抑圧の状況を丹念に分析するなど)、防げる余地が少しだけみえてくる。
ネット依存と井戸端会議の功罪
そうした外の場で、自己および自分の所属する家庭を相対化し、不幸度あるいは幸福度をはかることで、理想と現実のバランスをとってきたのだともいえます。
いま、その手段がTwitterやFacebookまたはネットゲームなどに替わりました。
井戸端会議や飲み歩きが、オンナ社会・オトコ社会とカテゴリー分けされていたのに対し、男女共同参画社会の到来とともに、こうした家庭外の交流ツールも男女平等に使えるツールへと変遷し、同性どうし異性どうし入り混じってのコミュニケーションが展開されていくようになりました。
今朝、NHKでネット依存を深刻そうに問題視する番組をやっていました。
私自身もネットゲームに没入していた時期はあるし、友達のハマりかたを見て「ヤバい域(現実生活破綻させてる域)だと感じることもあります。
でも、「ネットばかりで家事もろくにしないで!」とか、「ネットゲームにはまってる間に子どもがケガをした」とか、異常性ばかりを殊更に煽る内容に、「さすがNHKだなぁ…」と、昔と変わらぬアタマの硬さを感じてしまいました。
昭和の頃にも、とうちゃん会社のカネでキャバレー飲み歩いてたし、かあちゃん冷凍食品が解けきるまで何時間も立ち話なんて日常沙汰でした。コードのある電話機で長電話してたから、子どもが椅子から落ちても手を差し伸べられなかった、なんて話もそこらへんにあったような。
要はいつの時代も、人は、他家の悩みや愚痴を聞いては、「ウチはまだマシ」なんて現状にナットクしたりしてきたわけで。
それがTwitterやらネトゲに替わったために、異性間コミュニケーションになりやすくはなっているのでしょう。
けどまあ一線越えるわけじゃなけりゃ、アイドルの追っかけとどう違うというのか・・・・・。
NHKの番組では、「こういうのやっちゃう人は、寂しいんですかねぇ…」、「信じられませんね~」と、コメンテイターが怪訝な顔していました。だけど怖いのはむしろ、家庭外でのコミュニケーションが古来から当たり前に必要とされてきたということが、わからないこと。
度を越さなければあっていい、その「度をこす」境目がわからない予備軍というのはたぶん、自分が日頃どうやってハケ口見つけているかを省みることもなくい、ただ闇雲に「無関係」、「信じられない」って、カヤの外みたいに言ってしまっている彼ら自身なんじゃないかと感じました。
モラル・ハラスメントの難しい点。
1/25/2011
①やさしかった相手が、ある日を境に急に転じること
された側は、「あんなに親切だった人がこんなに言うなんて、自分にも非があるのでは・・・」、「いつか以前と同じようになれるのでは」と思い込んだまま泥沼に。
②投影同一視(『家庭モラル・ハラスメント』(熊谷早智子著 講談社α新書p.211などに記載。「(モラハラ加害者は)自己紹介する」)
「そのお言葉、100%あなたにお返ししたいです・・・・」というようなことをしばしば言われてしまう。繰り返されるうち、「相手を責めておきながら、もしや自分が同じことをしていたのでは??」と自己嫌悪に陥り、相手を責めた自分を責めるようになる。
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