〝いいお坊さん〟との出会いかた


「お坊さん派遣」は、1000円カットの美容室と似ている

ネットのボタンクリックでお坊さんを選ぶのは、「1000円カット美容室」で髪を切るのと似ています。
ものすごく腕のいい人に当たる可能性もありますが、なんの功徳も感じられなくても文句は言えない。

では、納得のいく僧侶(人生の指導者)とめぐりあうための、もう少し効率のよい方法はないのでしょうか。

お寺選びの指針となる、「ぐるなび」のようなウェブサイトはいまのところありません。

あっても宗派や自治体ごとの紹介で文化財としての価値を紹介するにとどまり、ご住職の人となりや、どのような相談に応じてもらえるのかなどは、わかりません。

ガイドがないとすれば、これまでの菩提寺と別れ、墓じまいをしたあと、いいお坊さんと出会うにはどうすればよいのでしょう。
ネットの僧侶派遣でいろいろなお坊さまを試してみるのが手っ取り早い、ということになります。

しかし、宗教儀礼をおこなってくださるかたを、インターネットのボタン1つで依頼するというのはどうなのでしょう? 
お姿や人柄を見て、きちんとお願いするのが筋だとおっしゃるかたも、まだまだ多いです。

いっぽうで、

「ネットのお坊さん派遣を利用してみたら、いままでの菩提寺の住職よりずっとよかった!」

「こんなに熱心に法話をしてくださるお坊さんに、初めて出会えた」

という声もあります。

ネットでお坊さんを依頼するときの注意点やメリットはあるのでしょうか?

冒頭に述べたとおり、ネットの「お坊さん派遣」は、1000円カットの美容室でカットするのと似ています。

気持ちの通じる僧侶に出会える可能性もゼロではないですが、法話もなくさして読経に心を打たれることがなくても、文句は言えません。

これまでのお寺とのつきあいが、墓地の管理をお願いしているだけの関係になっていたかたにとってはおおげさに思えるかもしれませんが、僧侶との出会いは、いわば人生の師をみつけることです。

仏の教えにしたがうなら、外見を装うことは、仏教の教えとは対極の方向とも思えるので、お坊さんとの出会いを美容師さんとの出会いにたとえるのはどうかとも思います。

とはいえ、「ボタン1つでお坊さんを呼ぶのはなにか違うんじゃないか」と思ってはいても、なぜそれがよくないのか、ということについて、いまひとつピンとこないかたのために、わかりやすい例として、美容師さんを選ぶ場合にたとえてみます。

美容に少し気を遣いたい人ならば、1000円カットを利用せず、雑誌やネットの情報を駆使し、足しげくあちこちの美容室に通いながら、「この人にお願いしたい!」という美容師さんを見つけるまでがんばって探すでしょう。

そうやって見つけた美容師さんが、「お店を出て自分の店を持つ!」となれば、電車で30分~1時間のところへでも、出向いて行ってカットをお願いする場合もあると思います。

檀信徒と菩提寺の関係も、このようにあるべきではないでしょうか。

引っ越しをして少し距離が遠くなっても、「あのお寺でなければだめなんだ」と思われる関係でなければ、師と仏弟子とはいえません。

本気で仏教に親しみたいなら、〝マイいきつけ寺院〟を探そう!

さらに、格式高い有名寺院に墓をもち、儀礼の質、満足度、お布施の額、いずれも高いお寺との深い縁を大事にするのは、カリスマ美容師先生をコネで紹介してもらって、大枚はたいてカットしていただいたことを誇りにすることに近いでしょう。

もうちょっとカジュアルな感じでいい、という人なら、お寺の催しをあちこちハシゴしてみて、納得のいく和尚さまを見つけることもできます。

近所で体験型のイベントをやっているお寺を探すには、やってみたいキーワードとエリアで検索してみるとよいでしょう。

お寺で行われているイベントを探すには、前回お伝えした「まいてら」のほか、一般社団法人寺子屋ブッダが運営する「まちのお寺の学校」というサイトも有用です。

「まちのお寺の学校」の寺子屋ブッダは、人生100年時代の健康増進をお寺で実現することを推奨し、朝のお勤めの様子を、宗派を超えた全国のお寺が日替わりで配信する「ヘルシーテンプル@オンライン 朝の会」を開始しています。

朝7時~、全国どこにいても、zoomで気軽にアクセスできます。

このように、法話をzoomやYouTubeで配信したり、朝のお勤めの様子をライブ配信したりする試みが盛んになっていますから、いまは数年前よりもずっと、〝マイいきつけ寺院〟を探しやすい状態かもしれません。

英国のリンダ・グラットン教授は、2007年に日本で生まれた子どもは、107歳まで生きる確率が50%もあるとの推計を2021年に著書『LIFE SHIFT』シリーズで発表しました。日本政府もこれに応え、「人生100年時代構想会議」をスタートさせています。つまりこれからは、定年後の人生が30年以上もある、ということを予測して生きたほうがよいのかもしれない、ということなのです。

私はずっと、財産の計算や保険の契約を迫られるような終活ではなく、「スマートな隠居」(=輝く終活)を推奨してきました。
少ないながらも年金(定期収入)を得て、昔話に出てくる「いいおじいさん、いいおばあさん」のように、つましい生活でも幸福感をもち、あくせく働くことをしなくてよい時間。

終活期の時間は、孫の世話に追われたり、検査ばかりの病院へ通ったりする時間で埋めるよりも、現役時代にできなかったことをできる、豊かな時間にしてほしい。
「なんのために生きるのか」、「あの世へ行って肉体の縛りがなくなったら、どんなことをして過ごすのか」といった、モノやお金から離れた哲学的時間を持っていただく、ということです。

財力のあるかたなら、史跡を尋ねて歴史を知ったり、寺社仏閣を訪れ日常のあくせくした時間をリセットするのもよいでしょう。

小休止:史跡を訪ねる意義

私の任意団体ひとなみでは、たんに名勝を尋ねるのではなく、ある人物や、歴史上のある事件にテーマを絞り、ゆかりの場所を訪ね歩く「テーマ別観光」を推奨しています。歴史上のできごとは、勝ち残った側の記録で埋め尽くされていますが、逆の立場を想像してみると、意外な発見や驚きに感動することがあります。

【English is available】史跡を訪れる意義~2つの鏡神社と藤原広嗣Mystery of the Fujiwara Family in the Nara Period in Japan


それ以上に、近所のお寺のイベントを見つけて通ってみるというのは、人生を反芻し、人として大切なことを感じ考える時間を持つための、一番の近道と思います。

お金も、旅行ほどにはかかりません。
私自身も、毎週土曜の夜は知人僧侶のzoom坐禅指導を受けています。
チョイ悪和尚さまからときどきオンラインで梵字のご指導を賜っています。

さらに週末には、インドのアシュラムでサンスクリット語の指導者をされている日本人女性から正統のサンスクリットの発音とシュローカの背景にあるヴェーダについてのご指導を受けています。

家にいながらにして、さまざまな宗教的体験ができているので、自粛中にも欝々とすることもなく過ごすことができています。

お寺さま。減った法要を数える前に、覚悟を決めてください

さて最後に、さして納得していないのに、これまでのお寺との縁をなんとなく続けている人たちの場合について、お話ししましょう。

心のうちに不満を募らせながらも、祖父母曽祖父母の時代からのお寺と縁を保ち続けているとしたら、それは親子代々旧知である故郷の美容室に通い続けているのと似ているかもしれません。

1000円カットの平均的腕前よりも満足度が低いと感じながらも、「祖母の代からやっている町の美容室がつぶれてしまったら、かわいそうだから」と、1000円カットの10倍の値段を払って帰省のたびにカットをお願いする、という状態。

〝義理〟という感情でかすかにつなぎとめられたその関係は、墓じまい寸前の檀信徒の気持ちと、よく似ています。

美容の世界であれば、店構えや値段から「このくらいのサービス」という期待値があり、裏切らない範囲で仕事をすれば文句も出ません。

しかし僧侶の世界は、自分の菩提寺が全体から見て、どの程度のサービスなのか、ということが非常に把握しづらいものです。

〝成仏させることの大切さ〟が伝わっていないのだとすれば、この程度の読経ならば許容してもらえる、といった線引きは存在しません。

〝あの世〟のリアリティを信じていない市民にとっては、もはや読経そのものが〝義理〟でしかないからです。

心やさしき日本の皆さんは、「曾祖父の代からつきあってきた町のお寺がつぶれてしまったら申し訳ないから」と、これまでは、法要も言われた通りに実施し、その都度、先代に言われた通りのお布施を包んでくれたかもしれません。

しかし2020年、新型コロナウイルスの影響で、すべてが変貌しました。

いま、「法要で人が集まると密になる」ということを理由に、多くの人が法要をキャンセルしています。

信心深く、和尚さまとの関係も良好で、ほんとうにやむなく法要をキャンセルしたご家庭の場合は、いずれソーシャルディスタンスを気にしなくてもよい時期がきたら、また法事を行うかもしれません。

でも、僧侶派遣で得られる平均的な満足も与えていないのに、10倍20倍の金額を要求しつづけてきたお寺の場合、檀信徒は、「親戚の手前」、義理で法要を続けてきたにすぎませんから、何年たってももう戻ってくることはないでしょう。

ヘルシーテンプル構想なり、物質文化と離れた価値なり、マインドフルネスに便乗してみるなり、さまざまな方法があると思います。人々がほんとうに必要としている価値を提示できなければ、信心はついてきません。