「墓じまいの相談をしようとしたら、お寺からひどいことを言われた」
「親や親戚の悪口まで言われ、傷ついた」
私の事務所にはしばしばこんな電話相談がとびこんできます。何も知らなかった開業当初は、宗派の本山に相談なさるようオススメしていたのですが……
たとえば、ある寺院が改葬(墓じまいのために先祖のご遺骨をカロートから取り出すこと)になかなか応じてくれず、いわば〝遺骨を質にとって、無謀な要求をしている〟という状態で、その宗派の宗務庁へ電話相談をしてみると、
「現代の法理論では、宗門も一寺院も〝宗教法人〟という同格の法人組織なので、互いを裁いたり指導したりされたりする関係にありません」
といわれてしまいます。あるいは穏便に、「もうちょっとよく話し合ってみてください」と責任回避されます。
詳細は拙著『瞬間出家~聖よ、日本の闇を切りひらけ!』(Amazon Kindle電子版)に書いたのですが、たいていの宗門組織において、電話相談に応じる人は輪番制で、数年間だけ宗務庁の組織に勤務して、いずれはご自坊(ご自身のお寺)へ戻るようになっています。宗派を代表して意見するために特別に崇高な位を得ていて、末寺に指導ができる立場ではありません。むしろ副住職が住職を継ぐまでの中継ぎとして、給与を得て宗派のための事務を担当しているような感じなのです。
いっぽう墓じまいをしたいという人に高額のお布施を要求するようなお寺は、修繕費用などが桁違いに高いから理不尽な要求に走ってしまわれているのでしょうから、比較的大きな伽藍のお寺です。宗務庁勤めの若い副住職さんとしては、地域で一、二の大寺院のご住職から目をつけられたくはありません。できることなら穏便に済ませたいので、先ほどのような煮えきらない回答となります。
もちろんこれは、組織の欠陥です。一般の人は、「仏法に照らして、こんな行状のご住職を放置なさるのですか?」と問うているのに、宗門側にはそれに応える仕組みがないのです。
一般法人(株式会社や社団法人、財団法人、NPO法人など)を参考に正しい方法を探るなら、クレームが上がったら、電話を受けた担当者はいちおうの謝罪をしたうえ、事実を聴取して情報を入力し、「役員会にかけてお返事します」と回答すべきなのです。その月に集まったクレームについて、役員会でひとつひとつ話し合い、対応を処理すべきです。一般法人では当たり前のこうした処理が、多くの宗門組織ではうまく機能していないと感じます。これから改善すべき課題です。
別の話で、若い頃にグレてしまい一念発起して出家を志した人が、ある宗派へ入門したものの、本山の修行道場にて背中の刺青を理由に修行を断られたという話を聞いたことがあります。釈尊は、殺人鬼アングリマーラ(アヒンサ)を弟子にしたという逸話があるくらいで、刺青をしているという理由で入信を断る理由は、ほんらいの仏教にはありません。本山がこのように人を色眼鏡でみるようでは困るのですが、現状はそのような状況です。
宗門という組織はピラミッド構造をしており、上下関係を生みやすく、釈尊の教えからは遠い仕組みで運営されるケースが少なくありません。こうしたことを避ける目的で、寺を持たない方法を貫き遊行集団の形をとった時衆(のちに寺を持つようになって時宗)や、山野で修行を続ける行者、さきほど菜食のところで話題に出た木食(多くは修験行者として遊行しながら仏像を彫るなどしていました)といった生きかたも存在します。
最近では、包括宗教法人(宗門)に属さず、あるいはあえて離脱して単立になるお寺も増えています。中道を実現せず、「ウチの宗派では○○してはならない」とベキ論で決めつけてしまう組織から離れて単立になったお寺から、新しい実践が積みあげられていくのを期待したいと思います。
ただし単立寺院の場合、つぎの住職をどのように迎えるのかという課題が残ります。大きな組織であれば近隣寺院との兼務でお墓の世話だけはしてもらえるという利点がありますが、単立では住職に万が一のことがあると、墓地の管理が宙に浮くおそれがあります。また宗とする経典や行の実践方法が定まらないこともあり、住職が代替わりすると教えがガラリと変わってしまい信徒が混乱するおそれもあります。
多くの人が「自分は無宗教です」と公言し、自由葬・音楽葬など無宗教スタイルの葬儀が増えてきた昨今でも、葬儀の7割前後は仏式で行われています。
都市部でも、お仏壇のある家庭では(高齢のかただけかもしれませんが)毎朝お仏壇に手を合わせる姿は残っています。
私たち市民にとって、手を合わせることは信仰であるとともに、「親がやってきたからやる」という慣習的な側面もあります。「○○宗の教えを信奉しているから」そのお寺と縁を持ち続けている、という人は稀かもしれません。「いただきます」と手を合わせ、天へ祈る気持ちは持っている人が多いいっぽうで、菩提寺(お墓のあるお寺)の宗派はよくわからないという人も少なくありません。
となると、本山の存在価値は、宗祖から続いているという文化的な要素以外にあるのか? と、疑問に思えてしまうこともあります。
ここまでに述べてきた問題のほとんどは、住職が一人で寺を維持していることによるものでした。
近隣寺院が4~5ヵ寺でゆるいサンガを築き、まわり持ちで地域住民を集めた行の実践を行ったりし、互いを監視するようになると、伝統仏教をめぐる弊害の大半は消失するのではないかと、個人的にはひそかに感じています。
(拙著『心が軽くなる仏教とのつきあいかた』第1章より加筆修正)