2014年以来6年ぶりで、北陸浄土宗青年会とのご縁でお話しさせていただきました。
今回は、「全国浄土宗青年会の本年のテーマ〝念死念仏~ほとけにすがる道~〟に沿ったお話を」とのご依頼でしたので、満を持して自分の学士論文テーマだった一遍上人の「念々の念仏」について、当時のノートや資料もとりだしお話しさせていただきました。
そもそもは在家教化のための「経文を読めなくても往生できる道」であったお念仏。
それが法然~親鸞~一遍と時代を経て純化され、「時々刻々の一念に生死の本質をみる」(=生死の分け隔てがなくなる、死を恐れることもなくなる、死があるという事実に動じないなかで一刻一刻に生きる)というところまで純化されてゆきます。
その結果、「山河草木すべて念仏でないものはない」というように、自然界のあらゆるものともともに息をしてゆくようになります。
それはお釈迦さまがお城を出られるまえに教わってきたであろうインドのウパニシャッド哲学におけるイーシュヴァラ(創造神のようにいわれますが、この世界のありとあらゆる縁起をつくりだしている主体をさしており、いわゆる崇拝対象としてのフィクションの人型の神様ではありません)と近いようにも思えます。
極東のこの国において、お念仏が禅や瞑想とおなじように呼吸そのものとなり、お釈迦さまの時代の仏教へ回帰する力を持ちえたことは、驚くべきことと思います。