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墓じまいのとき“御魂抜き”はしなければいけませんか?

最近の改葬で、しばしば聞かれることです。
改葬をお考えのかたの多くは菩提寺とのつきあいがなく、市営霊園などから樹木葬や桜葬への移転であることが多いため、宗旨(菩提寺の宗派)へのこだわりもなく、葬儀も無宗教や自由葬を好まれるかたが多いので、“御霊抜き”の儀礼をするために僧侶にお布施を払うことに抵抗があるのもわかります。

戒名がついていれば、仏教式で供養されている

しかし、いざ相談でご自宅へうかがい、改葬許可申請書に記載する死亡日時をうかがうと、奥の間からお位牌をお持ちくださいます。お位牌には、当然ながら亡くなった日の記載とともに戒名も刻まれています。

戒名をいただいているということは、仏式で御霊を弔ったということです。
そのお戒名が墓石にも刻まれているということは、お位牌と墓石への“御霊入れ”の儀式をなさったということ。
この場合、私は「御霊が入っているまま処分するというのは、片づける石材店さんも嫌がると思います」とご説明しています。

供養の本質とは何か?

墓石は天然石であることがほとんどですが、山や河原に転がっている石と同じでしょうか。なんらかの儀礼をおこなって“御霊を眠らせている”から、語りかけの対象となっているのではないのでしょうか。

昨今はご遺骨への信奉が強く、ご遺骨そのものが語りかけの対象となってしまうことも多いようですが、土葬でなくともご遺骨はいずれもろくなり、骨壺のなかで次第にかさが減り、時間をかけて自然へ回帰してゆくものです。

対して、孫やひ孫の代までも拝めるようにと建立されるのが墓石です。骨はもろく朽ち果てても、語り継ぐ者がいるかぎり御霊は朽ちることがないという信念からです。

その御霊を思いやり、語りかけることが、ご供養なのではないでしょうか。
いまは亡き御霊に語りかけることで、自分自身にも新たな気づきが生まれたり、生きかたそのものが変化したりということもあります。
ご供養(=“御霊”という目には見えないものへ思いを馳せる行為)は、過ぎ去った日々への懐古(ノスタルジー)であると同時に、思いを馳せる当人の余生を大きく変える力を持つ行為でもあるのです。

“御霊抜き”するもしないも個人の自由です。数十年前に御霊を入れてあると言われても、気にせず無宗教を徹して御霊抜きなしで墓石を撤去しても、法的な罰則はありません(※)。
※撤去工事を請け負った元請け業者が自社で処分をせず、下請け業者に運搬等を依頼した場合、その下請け業者が産廃業許可を受けていなければ業法違反である、というだけの話で、撤去工事の依頼者には罰則はありません(東京都の場合、2016年執筆当時)。

しかし多くのかたは、たとえば翌年に親類縁者の誰かが重病になったり事故に遭ったりすると、「あのとききちんと御霊抜きをしておかなかったからではないか」と懸念してしまうものです。無宗教を徹していらっしゃるご本人はそう思わなくても、周囲から囁かれれば、心中無事でいられるとは限りません。

ご自身が「人は死ねばゼロ、何も残らない」とお考えであるとしても、周囲はそう考える人ばかりではないのです。
死と葬送にかかわる儀礼は、民俗の歴史のなかで何千年を通じ培われてきたものです。一世代ごとどころか5年10年で世間の捉えかたが激変してゆくいまの日本の状況は、異状といえば異状。迷いや不安が生じるのも当然です。

あしき慣習に固執する必要はありませんが、生きている多くの人にとって死が忌避されるものである以上、たとえ死後に何も残らないとお考えであったとしても、供養そのものに意味はあるのです。死者のためというより、遺された者のための要素も、少なくありません。

浄土真宗だけ例外

浄土真宗では例外的に、どんなかたでも阿弥陀佛が救ってくださり、追善供養の必要などもないと考えることから、お位牌は用いませんし、墓石にも「南無阿弥陀佛」とだけ刻字することが多いので、御魂は入っていないことになっています。

しかし浄土真宗の場合も、ご遺骨を移動する場合には読経をしてくださると思いますので、その読経にたいするお礼のお気持ち(お布施)はお納めするのが筋です。 御魂抜きのお布施は、文字通り「お気持ち」で。

先祖の魂を安らかにしてくださる読経にたいし、出せる金額でいいでしょう。

週刊誌や業者の「目安」は参考程度に

業者さまのサイトには、「目安は5万円~10万円」などと書かれていますが、あてにはなりません。

目安は、それまでのお寺とのおつきあいによって、大きく異なるからです。

たとえば月参りのある地域で、毎月月参りに数千円をお渡ししているエリアならば、こうしたときのお布施を毎月積み立てで支払っているような感覚ですので、ずっと少額でよいとされます。

通夜・葬儀に何百万もお布施するような関係であれば、閉眼供養のお布施が10万円ではちょっと物足りないでしょう。

さいごのけじめとなるわけですから、良識的にかんがえて、通夜・葬儀でお納めするくらいの金額が妥当と思われます。

しかし墓じまいの際は、前述のとおり撤去工事費用や新たなお墓の契約などで大きなお金が必要です。お布施にまで何十万円も捻出できない、という場合は、事情をお話しして可能な額をお納めしましょう。

魂抜きが必要なものと、そうでないもの

昨今は、AIBOの供養や長年愛用したPCのご供養、はては炎上してしまったのを収めていただく祈願の「ネット炎上供養」まで、さまざまなご供養がサービスとして見受けられます。

日本人はそもそも、針供養や人形供養など、長年使ったモノにも魂が宿ると考えますので、それらのご供養もあながち新手のご商売というようには思えません。

ただし、ご供養したほうがよいかどうかは、使ってきた人の気持ち次第です。

そのまま廃棄するのはしのびない、ご供養したい

そのような気持ちが募るのであれば、もちろんご供養するのは自由です。

しかし、「そういう供養をしたようがよいとどこかに書いてあったから」とやみくもにする必要はないと考えます。

亡くなったかたの御魂が宿っていると考えられているのは、お位牌と、墓石です。

多くの人は骨壺や、遺骨にも魂が宿っていて大切なもののように思っていますが、ご葬儀のときの読経は、肉体からはなれた御魂が成仏するようにと引導を渡す儀礼ですから、故人の肉体の一部であるご遺骨には、仏教的にはすでに御魂は宿っておらず、カルシウムになっていると考えられます。

とはいえ、土葬時代にご遺骨をいつまでもそばに置いておいたら病原菌やウイルスがはびこってしまうので、代わりとしてお位牌へ御魂を移した、ということでもあると考えられます。

火葬時代になり、ご遺骨はふれても安全ということであれば、故人の肉体であった遺骨をめでたい気持ちがあらわれるのも、当然のことです。

手元供養で粉骨をペンダントやモニュメントに入れて手を合わせる対象とするのであれば、和尚さまとお話しして、そこにも御魂をお入れしていただくことも可能でしょう。

そして、大切に礼拝の対象としてきた手元供養品が不要となったときは、やはり和尚さまとお話しをして、御魂抜きをしていただくのがよいでしょう。

まとめ

  • 御魂抜きは浄土真宗以外で必要
  • 浄土真宗でも読経のお礼のお布施は必要
  • 故人の魂が宿っているのは、お位牌と墓石
  • 手元供養品などを礼拝の対象としてきたなら、抜魂供養をお願いしてもよいのでは

ひとりの死者のまわりには、顔を見知った多くの生者がいます。
納骨のときや墓をしまう機会には、一歩立ちどまり、「御霊があると考える人もいる」ということに少し思いを馳せてみるのもよいのではないでしょうか。

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